苦しみを前提に生きる

耳の痛い話ですが、
成長には痛みが伴うことが多いです。



のびのび自由にやって、
成長しまくるっていうのは
最高な感じがしますが、

そういうわけにも
いかないときがあります。



だから、成長したいのなら
苦しむことをある程度
受け入れる必要があると
思っています。


雑なフィルタを持つとしたら、
苦しんだ分強くなる、
というようなものを持てばいいはずです。




ただ、無闇に苦しい思いをするだけでは
意味がないのは間違いないです。



そこで、苦しみを克服するために
必死にならなくちゃいけません。




だから、苦しみを受け入れながらも
苦しまないように闘う、という
若干矛盾したような態度が必要になります。


苦諦という悟りがあって、
釈迦が言っていたようです。


この世の中、苦しいことがあるのは
しゃあないよ
っていうことだと思います。




苦しみを前提に生きた方が
逆に苦しくないし、
建設的だと思います。



これを僕は絶望と呼んでいます。



落ち込んだりするときはたいてい
絶望が足りてません。


つまり苦しみへの見積もりが甘かった
ってパターンが多いです。



テストで80点取れると勝手に思ってて、
60点だとショックです。


でも、本来60点の実力だったんだから
それは見積もりの甘さが招いた
苦しみです。


現実の認識がいかに正確であるか
ってことが大事なわけです。



そして、見積もりの甘さが露呈した時に、
苦しみを前提に生きてれば、

ああ、現状認識を誤ったから、
修正しとこう、

となれるのがいいわけです。


常に確実に見積もるのは難しいので、
見積もりが甘いことを見積もるわけです。


自分の認識と実状がかみ合ってくると、
勝手にうまくいきます。



その土台を作るために
苦しみを前提にするのです。
















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