自分とは何なのか
デカルトは
我思うゆえに我あり
と言いました。
確かなものなんて本当にあるのかと
考えたとき、
自分の見てる現実世界も
誰かに見せられてる幻想かもしれないし
絶対正しいと感じる論理でさえ、
正しいと思い込んでるだけかも
しれない。
(夢の中だと論理飛躍してても納得
したりするし)
そういうのを全部徹底的に
疑っていった結果
たどり着いたのは、
疑ってる自分というのは
確実に存在するよね
という結論でした。
この、疑ってる自分を疑うとき、
そこにはまた
疑ってる自分を
疑ってる自分
がいるわけです。
どこまでこれを続けたとしても、
確実に疑ってる自分はいます。
それが、
我思うゆえに我あり
という言葉の意味なのです。
(参考:
https://www.amazon.co.jp/gp/aw/s/ref=nb_sb_noss?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&k=%E6%9C%80%E5%BC%B7%E3%81%AE%E5%93%B2%E5%AD%A6%E5%85%A5%E9%96%80)
この考えは後に、
考えてる自分はいるけど
それは今この瞬間の
知覚として存在してるだけで、
一貫した自分という存在が
いるとは言えないんじゃね?
という話になったようです。
より限定的な解釈です。
で、なんかこのへんで、
釈迦が言ってたことが
引っかかって、
自我とは幻覚なんだ
といってたようなんですが、
(参考:
http://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2015/12/10/050000)
過去の自分と今の自分って
全くの別物なんですよね。
それを一貫した流れとして
認識するように
自我ってものがあって、
結局すべてのものは
刻々と変わってるし、
今この瞬間の自分自身
以外は自分じゃないと
捉えることもできます。
そんな風に、
結局全部、
あるようでないし、
ないようである
的な謎の理解を深めていくと
自我がなくなっていって、
悟りみたいな
よくわからない境地にたどり着くのかなと
思っています。
ただ、ここで
「結局全部、空でしょ?」
みたいになると今度は
無気力になり過ぎるから
密教では適度なエロはありって
ことになってるようです。
(と、ドラゴンさんが言ってました 笑)
自分って何かって話で、
なんか結局一言では言えないんですが、
上のような話が
自我を理解する上で参考に
なるなと思った次第です。
今日はこの辺で。
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